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下仁田ネギの歴史

「下仁田ネギの歴史と栽培」より

下仁田ネギ栽培の由来
ネギの原産地ははっきりしないが、一般には中国西部ではないかとされている。
中国では漢民族が原始時代から栽培されていたといわれ、約2000年以上の歴史を持っている。
 わが国でも「日本書紀」にネギの名が出てくるほか、平安時代の延喜年間に編集され現存する最古の本草書「本草和名」にもかかれており、きわめて古い。
又江戸元禄年間の「本朝食鑑」には、葱種、関西の地よろしからずして、江東処々もっともよし(略) 江東第一となす、ゆえに佐野、足利、日光、および上野処々これに次いで佳と称す。と記録されており、江戸時代前期にはすでに群馬県を含め全国的な畑作物になっていたことがわかる。
 下仁田ネギについての由来は明らかではないが、江戸文化2年(1805年今から181年前) 11月8日付けで「ネギ200本至急送れ、運送代はいくらかかってもよい」という趣旨の江戸の大名、旗本からのものと思はれる名主あての手紙が残されており、当時すでに下仁田ネギの栽培され、珍重されていたことがわかる。
原産地は群馬県甘楽郡西牧村大字西野牧小出屋(現在の下仁田町大字西野牧)で原種ほとされるのは、佐藤武志さんの住宅西南面傾斜畑300uが、下仁田ネギの「発祥の地」とされ、西牧ネギと呼ばれていた。
 往時、徳川幕府や大名に献上した記録があり、殿様ネギとも言われている。
平地でも栽培されるようになったのは明治に入ってからで、明治初年万国文化交歓文明輸入博覧会に出品されて名声を上げたこと又明治5年日本で最初の官制製糸工場の創設(富岡市)を始めとし製糸業が盛んとなり、糸の取引を通じて貿易会社とのつながりが出来、仲介者の商人が、ネギを歳暮、みやげ品として利用するようになって、規模の大きい養蚕農家の中の求めに応じて栽培するようになった。
その頃から近村の農産物が下仁田町に出荷され売買されるようになり、その地名をとって下仁田ネギと名づけられたと伝えられている。
 下仁田ネギには長めのものと、短めのものとがあるが、長めのものが純粋種で、短めのものはダルマ系といっている。
大正時代に入って現在の主産地である、下仁田町馬山、富岡市西部でも盛んに栽培されるようになった。
現在は下仁田町馬山を中心とした下仁田町一円と富岡市、松井田町の一部で栽培されている。