下仁田ネギの歴史
「下仁田ネギの歴史と栽培」より
- 下仁田ネギ栽培の発展経過
- 下仁田ネギは二百数十年と言う歴史を持っているが、明治以前は主に山間地である原産地(旧西牧村)周辺農家により自家消費を中心に栽培されていたようで、平地で栽培されているようになったのは明治に入ってからで、大正時代に入り現在の主産地である、下仁田町馬山、富岡市西部で盛んに栽培されるようになった。
しかし当時はまだ地元消費が中心で、品種改良も行われず、「暗中模索」の時代であった。
品種改良や企業的栽培の動きが一部篤農家から出てきたのは昭和に入ってからである。
昭和に入って一部篤農家による天皇、皇族家への献上、明治、伊勢神宮での奉納農産物品評会等で連続上位入賞し、名産としての評価が一段と高まり需要も増加した。
これに伴い、群馬・長野両県の農事試験場が栽培試験を手がけたが、群馬(前橋)では育ちが悪く、長野県では育ち過ぎて葉が硬直するなど食べ物にならず結局「下仁田ネギは下仁田へおけ」という結果に終わったと言われている。
この頃になると産地でも企業的な栽培研究が活発となり、共同販売の動きも高まって来た。
その中心となったのは、旧馬山村(現下仁田町馬山)と、富岡市西部であった。
しかし栽培研究は組織的なものではなく一部篤農かによる独自なものであった。
共同販売は甘楽郡農業会が窓口となって、各市町村から集荷し高崎・横浜などにトラックで運搬、街頭での直接販売が行われた。この直接販売も終戦で農業会が解体されるととに姿を消した。
戦後の昭和23年農業改良普及事業が発足し、普及所(山崎朝雄所長)の指導もあって、旧馬山村(現下仁田町馬山)田代地区に、田代農事研究会(会長松浦源一郎氏会員18名)が結成された。
当時の下仁田ネギは、戦時中〜戦後の食糧難時代でかえりみられず、本来の姿を失っていた。
これを伝統ある下仁田ネギの姿に戻すことを課題とし、昭和27年より改善試験に取り組み、以後5年がかりでいまの代表的な下仁田ネギをつくることに成功する。
更にこれを引き継ぐ形で昭和35年に馬山事業研究会下仁田ネギ販売部(会長堀口ナ太郎)が組織され、共同販売をスタートさせた。発足当初は顧客の開拓等苦労も多かったが、5〜6年で軌道に乗り、以後継続して活発な活動を続けている。以上の様に生産と販売の基本課題が確立し、この結果馬山地区は、下仁田地区の先進的な産地となった。
昭和50年以降(50〜60年)地域の基幹作物であるコンニャク価格の長期低迷に伴い、農業後継者の他産業への流失、事業化の進行等から地域農業は危機的状況を迎え、地域農業の活性化を図るべく、昭和55年町に産業振興審議会農業部会が発足、コンニャクに次ぐ特産物の下仁田ネギの振興が検討され、昭和57年町一円を対象とした下仁田ネギ振興協議会が設立された。当協議会により、品種改良と品質の統一を課題に優良系統の選抜育成試験が実施される。
試験は馬山、西牧地区より優良系統5系統を選抜し比較試験(58〜59年)を実施、この成績をもとに優良系統(中ダルマ)1つが選抜され、現在種子は採種ほで生産され、農協を窓口として管内栽培者に配布されている。