追憶の神竜族:2 未来へ


 重厚な暖色のカーテンは夜の闇と微かな月明かりを受けてまるで彫刻のように、深くはっきりと皺が刻まれ、浮立っている。
 その上を走る細やかな刺繍は月光の当たり具合によって控えめに輝く。


 闇に溶けきらない明るい色の金の髪。
 顔にかかる長い前髪を掻き揚げ、ふ、と弓騎士――――ジョルジュは息をついた。
「………」
 このような自分はらしくないと思う。

 地面が綿になってしまったかのような不思議な感覚。どこか落ち着かない。
 ふつふつと何か湧いてくるような気分。口元は笑みを作った。
「…浮かれてるのかよ。……ま、こんなの初めてだからな、仕方ないと思っておくか」
 そういえば昼間もそんな風に落ち着かない顔をしていた奴がいた。それは悪い意味ではなく喜び(と戸惑いも?)の顔だった。
 きっと今自分もそんな顔なのだろうか。
「…ふ」
 その「奴」――――傍らに横たわるソレは。
 それこそ、闇に溶けない白い肌。
 ジョルジュは目でその輪郭を追う。睫毛、頬、唇。顔の横を流れる長い髪。そこからぴん、と伸びた、人とは違う耳。
 聞こえない程度の声で名をぽつ、と呼び。自分の手に触れる長い髪を絡めた。陽の光の中では薄荷色の髪。だが今は千歳緑の深い色。
 そういえば、この司祭を迎えてからこちら、「らしくない自分」が多くなってきた気がする。
 今まで一歩置いて人を見ていた自分が、こんな感情を抱く事が出来るなど。
「…――ナ」
 ふ、と吐いた息まで、熱い気がして。「やはり、らしくないな」とまた苦笑した。
 こう何度もあれば最早「らしくない」と言えないかもしれないが。


 そ、と撫でられる感触に身じろぎする。
「ん、ぁ… ジョル、ジュ…?」
 隣りの体温に安心しきって熟睡していた司祭・エスナであったが、名を呼びながら目を擦り、開けた。
「ああ…、悪いな。起こしちまったか」
「うんん…。どうしたの」
「いや、……。理由がなけりゃ触れられない訳でもないだろ?」
「っ!?そ、それはそう、…だけど」
 それに、触れられるのは嬉しい、そんな言葉が頭に浮かんで、ぼっと顔が熱くなった。
「何考えてるんだか」
「も、もう!直ぐそういうこと言う!」
「可笑しいことは何も言ってないぜ?お前が勝手に面白可笑しく変換してるんだろ」
「くぁ…!ジョルジュっ!」
 からかう様な口調にエスナは素直に声を上げてしまう。いつも通りだと思いながらジョルジュは顔を寄せた。色の違う髪がゆるりと混ざり合う。
「っ、ン…」
 しゅるり、とシーツと夜着の衣擦れが闇に響く。

 暫く、そのまま無言。
 段々と月が明るくなってきたのだろうか、部屋に蒼白い光が差し込んでくる。その淡い光は今度は床の絨毯まで届き、細やかな段差がある刺繍がぼうっと浮かび上がる。

「ふ……エスナ」
 耳元へ顔を埋め、甘えるように擦りつけながら続いて息混じりに想いの言葉を囁く。少し掠れた低い声。その唇は柔らかい素肌を這い、吸い。華を散らしてゆく。
「っ あ…」
 エスナはそれを受けて何度も頷きながらジョルジュに廻していた手を、く、と強めた。それに気を良くしたか、軽く結われている髪紐を解き、手に絡めながら柔らかい身体を組み敷くように寄せ、己の胸に押し込めた。
「ん…ぁ」
「………っ。だが、それだけじゃない、か」
「…?」
 潤んだ薄荷色の瞳を覗き込む。夜の闇の暗さも手伝って、とても深い碧色。
 それを見、苦笑しながらも妙な嬉しさを感じる。エスナの顔は嬉しさに染まっているからだ。
「…ありがとな、エスナ」
 蒼い瞳を真っ直ぐに向け、言う。思わず笑みが零れた。
「え!…ああ。そんな、私もだって」
 ジョルジュの大きな手がエスナの腹に当てられると、じんわりと温かさが流れてくる。


 今日の夕刻だった。
 希望が確信に変わって、しどろもどろに報告したのだ。
 ――――実は、とエスナは思い返す。
 言う時は「こういう雰囲気」で「こんな場所で言いたい」など、頭の中で考えていたのだった。
 どうしたら吃驚してくれるかな、喜んで笑ってくれるかな。などと。…実際その時になると全て飛んでしまったが。
 ただただ教えた時の反応を知りたくて。自分の嬉しさを伝えたくて。
 最も、エスナの「緩みまくっている表情」を目敏く見つけ、「妙な奴だぜ」と指摘されてしまったのも理由だが。


「……ジョルジュ。ありがと」
 そして、少しばかりの戸惑いのようなものもあった。
 本当に、「いいのだろうか」と。
 だが、その思いも報告した後に、頬を微かに染めながら喜んでくれた彼を見て消えてしまった。
「ああ、今に輪をかけて騒がしくなるぜ、…大体チキが放してくれなそうだからな」
「あは。確かにチキ喜びそう。…でもね、これもありがとうだけど…。ラーマンに来てくれなかったらこんなの、掠りもしなかった…何度も言ったけどね」
 つ、とジョルジュの緩く開いた襟元を撫で、肩を辿りきゅ、と掴む。


「なあ、…エスナ」
「?」
「…俺たちは…戦とは言え、たくさんの命を奪ってきた」
「……ん」
 力を増した手にジョルジュは自らの手を重ね、続けた。
「…それを子やチキにも分からせなければならない。痛みを知らぬ者はいつか痛みを与える側になる……。だから、言わぬわけにはいかない」
 そこで言葉を止める。重ねられている手が少し、動いた。
「私は大丈夫だよ。言って」
「は…。……俺が見られなくなる前に、あいつらに全て教えるつもりだ。それこそ、今は想いを持っているだけの存在じゃないんだ。後ろ向きじゃいられないからな」
「……」
 ゆっくりと頷く。
「俺が持っているものを全て受け継がせる。……その上で家の名が邪魔なのなら捨てろ。使えるのなら使え。…少しでも竜族のいいように生きろと」
「!? …でもそれじゃあ!…私、ジョルジュにそういう重さは背負って欲しくない」
「馬鹿だな、重いなんて思ってないぜ。メニディの今の当主は俺だ。反論はさせない。…は、メニディの…俺の子だ、それくらい出来るだろうよ」
 苦笑交じりのその表情にエスナはどんな顔をしたらよいのかわからず、ジョルジュの目を見つめたまま。
「……」
「ご不満、か?…まあ聞けよ、血が残れば家は残る。……いつか言っただろう?それでなくともアカネイア貴族は殆どがなくなっていると。…いつまでもしがみ付いているのは頭の良い事なのか、…どうなんだろうな。そんなのは俺もお前も居なくなった頃のお偉いさんが説いてくれるさ」
「私は…できれば残って欲しい、けど」
「ああ、…それに、そうあいつらが出来るくらいには準備はするつもりだ。おい、妙な顔はするな」
 頬に手を当て、むに、と軽くつねる。
「むっ!」
「勘違いするなよ。俺も好き好んで家を無くそうとはしてないぜ。どうあれ、今の俺を作ってきたのはあの家なんだ。愛着はあるさ、人並みにはな」
「! ふふ…」
「? なんだ?」
「だって、メニディの家、嫌いそうだったのにそう言ってくれるようになったんだなぁ、って」
「ま、俺もいつまでもガキじゃないさ。嫌いなら好きになるように変えればいい。……守るものが増えたんだ、そうなってもらわねば困る」
「…ん」
「……。エスナよ、月並みな言葉で笑っちまうが…」

 上半身だけ起こし、エスナを見下ろす。
 月明かりを背負うジョルジュの顔はエスナからはよく見えなかったが、分かる。その目ははっきりとこちらを向いていると。
 長い影が絨毯に落ち、そのまま部屋の向こうの扉まで延びる。
「ジョルジュ…?」
「お前は、…お前らは俺が守る。数十年、数百年の先、俺が生きていようと死んでいようとな。…まだ俺も竜族から見ればガキと同類だろうが、…だがこれはこの先いくら歳を重ねても変わらない」
「…っ!」
 目線を合わせたまま、誘われるように起き上がり、エスナは返事の代わりに抱きつき、腕をきつく廻した。薄い夜着越しに逞しい身体を感じながら、肩口に顔を埋める。
「――――ジュ…」
 二つ分の長い影は、先程よりも大きく一つとなってぴたりと重なった。
「……」
 ジョルジュは苦笑しながらその柔らかい身体を撫で、夜の空気で冷やさないようにとベッド脇のローブに手を伸ばし掛ける。それと共に腕を廻し直した。

「こんな事でいちいち感激するな。感激させる為に言ったんじゃないぜ。これからの話をしただけだ。……おい、痛いって」
「ジョルジュ…!」
「…は、お前はそうやたらと壁を作りたがるがな。ただの女よりこの方が面白いかもしれないぜ?…うまくすれば竜と人の架け橋になれるんだ。我が家も捨てたもんじゃないだろ」
「ふふ、……あ!でもそれって私が普通だったら逆にっ」

「…。は? お前、前から普通だと思っていたのか?」
 眉をくい、とあげて。にやりと笑う。
「はい?」
「俺にはとても淑やかなシスターには見えなかったが。…本当にレナと一緒に暮らしたのかよ?」
「っ! かっ、カダイン帰りはそれでいいの!」
「なんだよ、それは」
 笑い、顔を見合わせ。それからこつん、額をつけた。
「ん!」
「……。 だからエスナ。…人だ竜だといちいち区別するな。……まぁ、ありがたい事だとは思うが」

 そ、と髪に触れ。
「区別して、突き放そうとするのも竜族の事もあるだろうが、俺を心配して想っての事だろうよ。…傍に居なければ傷つく事もない、危ない目に遭うこともない。妙な心配もなかろうさ」
「……」
 目線が下がった事に図星かと苦笑し、続ける。
「だが、俺を傷つけたくないのなら、もうそれは考えるな。…俺の傍に居ろ」
「ん…。もう、離れたくない…」
「…ああ。俺はお前が欲しくて選んだんだ。それだけだよ。何も難しい事はないぜ」
「私も…」
「ふぅん?…私も?なんだよ」
「ジョルジュ、が、……だけが…」
 「なんだよ」は、続きを言わせようとからかう顔だ。それを向けられた事が逆に嬉しくて。
 とても寒い時に温かい飲み物を飲んだ時のように、暖かい暖炉の前に居る時のように身の内からじんわりと温まっていく感覚。ほうっと、心地良い。
 この気持ちを、感覚を分けてあげたい、と擦りつけるように寄り添う。


「ふ、…慌ただしくなるな」
「でも、私は嬉しい」
「ああ、こういうのは悪くないだろうよ」
「……」
 たくさん想って、笑って、怒って、泣いて、心配して。
 そういう事が当たり前に出来るのがとても――――。

「ふふー…」
「…ナ……」
 寄り添ってきた身体を受け入れながら、ジョルジュは目を細めた。エスナに気が付かれないように少し上を向いて。
「…(俺は…)」

 自分で酷いと思う。
 どう転んでも先に逝くのは自分だ。しかも普通の人間のように数年、数十年の差ではない。
 なのに、こうして、エスナを自分に身も心も自分に縛り付けている。堂々巡りを何度も繰り返した。それこそ人の事は言えない程。
 だが、かと言って他の男に曝け出すエスナなど想像したくもない。自分だけでいい。

「(…は。…怖がっているのはどちらだ)」
 無意識に手が強くなって、エスナはその相手を見上げる。合わない目線に首を傾げた所でジョルジュは天井に向けていた目線を戻した。
「……」
「…ああ」
「……。心配するなーって…思うんだけど」
「!」
「…今何を考えてるのかわかんないけど。……でも、きっと今だから私のことだと思うし。だったら、大丈夫だよ。ジョルジュが私の怖さを拭ってくれたのと一緒。そんな人はもう二度と現れない、でしょ?」
「……――――ッ。…ふ、やれやれ。…かもな」
 そうだな。
 こうにしかならなかったし、こうする以外に自分の中で答えがなかった。

 だったら。

「…縫い留めてやる」
 たくさんの思い出を作って。
「……ん…」
 生きていこうと。

 そして――――。



 視界が暗くなり、温かいものが触れる。
 影はまた一つになる。

 橙とも桃色ともつかない透き通った色が部屋を照らし、影が光に溶けるまで。絡み合うようにずっと寄り添っていた。









*




 ――――とある屋敷。

 森と泉が近くにあるそう大きくない屋敷だが、季節の良い時には別荘として利用していた。
 以前からあったものだが、冬になれば雪が降るその土地柄、放置されていたその屋敷を小さな子供たちの為に整備をしたのが数十年前。
 それから暖かい季節になれば時折そこを訪れていた。
 アカネイアの英雄、戦友たちも集まり、賑やかなひと時を送ったこともあった――――。




「…お前はまだ可愛いよ。…だから、もしこれからのお前たちを支えてくれる奴が…」
 夕刻。
 窓からの橙色の光が帯となって差し込んでくる。
 庭にある像も橙色と影の濃い色合いで昼間とは違う姿を見せていた。

 ベッドの上に置かれた手は長い年月を経た手。その大きな手を柔らかい二つの手が握っていた。

「! バカ言わないで。守ってくれるって言ったじゃない。約束忘れたの?」
 にこりと笑うエスナに、ジョルジュは目を見開き、それから苦笑しながらその頬に空いている手を伸ばした。
「…エスナ」
 『そしていつか、お前を守ってくれる奴が、愛せる奴が現れたら、俺の事は気にせず、幸せを掴め』と、思っていたのだが、ジョルジュはそれが全くの無意味であったと知る。
 数十年経って、漸くそう思えるようになったのに、と笑ってしまう。
 同時に安心して、息をつく。やはり、彼女を誰にも取られたくない・守りたい気持ちは少しも変わっていないのだから。
 事実、彼のこの数十年は神竜二人と我が子を守る為に多大な努力と苦労があった。それは家の事、そしてアカネイアにおける竜族の地位の確保。
 暗黒戦争の頃、チキは頭部をすっぽりと覆うフードを被っていた。また、竜族とわかった時のエスナもウィンプルで隠していた。それは人と違う部分を隠す為、だろう。だから、竜族が「そうしなくとも」生きていける地位を。

 確かに苦労は絶えなかった。だが、それを嫌だと思ったことは一度たりとも無かった。 それは、傍に居る事の喜びが遙かに勝っていたからだ。

「忘れてなどいないし、俺の気持ちは変わってない。……そうだな、お前たちを守り、幸せに出来るのは俺だけだ。これからも…」
「うん」
「……――さまっ…」

「…ちゃんと、待っててね。きれいな天使が居ても声掛けちゃ嫌だよ」
 がさりとした手の感触。それに甘えるように頬を押し付ける。
「うるさい神竜がいるからな…。そんなことはとても怖くて出来んさ」
 掠れた声で、それでも笑い。
 手招きをして二つの頭を抱きしめた。
「それに、お前たちが危なっかしくて他になんて目をやってる暇がないな。……傍に居る」
「お父様…!」
「ああ…ずっと見てる。待ってるから、…安心しろ」
「うん…!」
「……ん」
 低く、ゆっくりの声、手つき。
「ジョルジュ…!」
「……?」
「大好き、だから…。言って?」
 ――あなたから発せられる最期の言葉を、優しいものにしたいの。
「私たちの事、…言ってほしい」
 謝ったりしないで。そんな言葉はいらないから。
「ね?」
「! エスナ…」
 目を見開き、それから、ふ、と息をついて。

 ――いつから、こんなに強くなったんだろうな。泣き喚きたくて仕方ないだろうに。
 薄荷色の長い髪を指に絡める。何度も愛を交わした唇を指で撫でた。出会った時、そのままの姿なのに、心はとても強くなったんだ、と。
 それから自分たちによく似た子に視線を落とし、真っ赤に腫れた目元を拭ってやる。子はこれから何をしたい、あれをしたい、こんな人になるからと曇りない「希望」を捲くし立てた。エスナを見て、ジョルジュに心配させぬようにだろう。
 それから最後に「好きだよ」と。ジョルジュはそれを聞いて頭を撫でた。
「ああ、…愛している。 お前たちに会えて良かった――――」
 目の前の愛する者たちをしっかりとその双眼に映し、微笑む。
 橙色の光に照らされた碧眼はとても美しかった。
「ありがとう、私もだよ。ジョルジュ、大好き…」
 そうして一番笑顔を見せた。
 ジョルジュはそれをとても、とても美しいと思った―――。


 息が流れる。
 緩やかな胸の動きが感じられなくなる。
 重みが増す。頭を抱きしめていた手が、滑り、だらりと落ちた。
「…ふ、ぁ…ッ」
 笑って送ろう、と思っていたから、今になってぼろぼろと涙が溢れ、濡らしていく。

 エスナは、隣で泣きじゃくる我が子と、まだ温かい身体を抱きしめて、もう一度「私もだよ」と呟いた。

「お疲れ様…」





ちょっと回想。
子供何人いたんだろうとかふと思う。
誰かは家を継いだのかな、とか。
誰かは弓が得意だったのかな、とか。
まぁ、竜族は子供生まれにくいみたいだから一人だったのかな、とか。
ジョルジュはすごく想ってくれそうみたいなそんな感じ。
なんで最期のシーンにチキが居ないのかと言えば…、割と最後まで入れるか迷ったのですが、
1)子供に遠慮した。(ドアの向こうで待ってる)
2)他国を見聞に行ってて間に合わなかった
…と言う感じで。多分1)かな。ドアの向こうで泣いてる。
ジョルジュもエスナも子も来ていいって言ったのに、遠慮できるくらい大人になった。

別荘ってと5巻のノルダのヤツを思い出す。あんなのが結構点在してたんだろうなぁなんて。
カントリーハウス的な?

今更ながらですが、アカネイア人と竜族の組み合わせって良かったかなと思っています。
人と竜の今までの歴史から見ても、…と思うのですが、いかがでしょうかね。


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