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遣らずの雨
は、と指先に息を吹きかける。 しかし、一度冷えてしまった指先はなかなか温まらない。息の温かさだけでは足りず、手を擦り合わせる。 「雨…かぁ、止まなそう…」 思わず、く、と眉を顰める。 どんよりと暗い空とは正反対、明るく暖かい色合いの羽織を胸の前できゅっと握りしめた。 「じゃあ、景勝。後は頼むね」 「………仰せのままに」 「…行きたいかい?」 くす、と口元に笑みを浮かべる謙信に、景勝は息をつき、小さく首を横に振りながら「いいえ」と返した。 「別に来ても良いよ?」 「……昨年ご一緒させていただきましたので、今回は遠慮させていただきます。 ……それに」 ちら、と文机に目を渡す。 「ん、今期の田畑は終わったとは言っても…、まだやる事はあるからね。……でも、一日だけ許しておくれ」 「! …ふ……父上」 今度は景勝が笑みを浮かべる番だった。とは言っても、注意して見なければ分からぬほど微かに、だが。 「…俺にも任せてください。父上。 ……沙那姫の―――…母上の日です。こちらの事は心配なさらずに」 「っ!…」 ふわあっと目を見開き、それから笑みを返す。 「ありがとう、景勝。……そして――――」 笑みのまま目を細め、続きの言葉は飲み、小さく首を横に振った。 「……はい、ありがとうございます。父上」 「お待たせ、沙那姫」 「! 謙信様」 「あぁ…降って来たか」 「はい。残念ですね」 「……。そうかな?」 「?」 「それより、その格好で寒くない?」 手を合わせているその指先を己の手で包みながら、羽織に目を落とした。 「大丈夫です。でも、私より――――」 「……ああ、それこそ、大丈夫だよ。景勝にね、任せて欲しいと言われてしまった。…ふふ」 おどけるように肩を竦め。さ、と背を押した。 ――――生を受けた日に、二人だけで出かけよう。 去年、近場ではあるが、城の外に出かけ、食事をした。 そして、それを毎年の楽しみにしようと謙信は数ヶ月も前から沙那に提案をしていたのだ。 しかし、当初、その提案に素直に頷く事が出来なかった沙那であったが、「じゃあ、秋に頑張った私へのご褒美を兼ねてよ」と付け加えると、流石に断わらなかった。 勿論、話自体は沙那にとっても嬉しいものであったから。 そしてその日。 天気が悪く、少し雨が降っていた。 「少し上がれば雪だろうね。…ほら、ご覧。もう白いよ」 「ほんと!うわぁ、綺麗ですねー」 示された山の頂は白くなっていた。 傘を少し上げて景色が見えるようにする。沙那はその指を目で追い、それから同じように指で辿る。それから以前教えてもらったそちらの地域の名を口にして。 謙信はそれを聞きながら、空いている手で隣の肩を抱き寄せた。 「……。ほら、濡れてしまう。…ごめんね、歩きは大変だろうけど」 「いいえ、歩くのは楽しいですよ?こうしている方が出かけてるーって感じで。歩けない程の雨でもないし…」 ゆっくりと二人で歩けるのはいい―――と言葉を続けようとして、恥ずかしくなったのか、笑みを湛えながら俯く。 「ふ…」 勿論、沙那がそう言うであろう事は分かっていた。 分かっていながら、それでも言わせたくて。 「? 謙信様…?」 「いや、いいなぁって」 「……」 紅葉のような明るい色の傘 曇りの微かな光りを梳かす色でほんのりと顔が朱を帯びている。 二人は顔を見合わせながら、笑った。 「…そういえば、慣れたみたいだね」 ――――夜。 二人は食事が終わり、部屋で寛いでいた。 「え?慣れ…?」 沙那は膳にあった大きな貝を譲ってもらったのだが、それを指で辿りながら顔を上げ、謙信の言葉を聞き返した。 「うん」 言葉の意味を探す程、気にならなくなったのかな、と。沙那が自分で気が付くまで待つように謙信は目を合わせたまま。 口元には微かに笑みを浮かべ。胡坐をかき、膝に肘を付いて。 「……」 「…! っとー」 顎辺りに手をやり、記憶の糸を辿る。目線は謙信からその背後の障子、天井。それからふと壁に移動した時に、どん、と外から音が響いた。 「っ! あ…本当だ…」 存在に改めて気がついてしまうとその響いてくる大きな音に、やはり身体は反応してしまうのだが。 「そうですね、去年よりは、怖いとは……思わないかもしれません」 「ふふ。…でも、貝は珍しかったり、波が打ち寄せる方向を見て目を丸くしたり。面白いね」 肘を上げ、腰を上げて沙那の目の前に座りなおし。 沙那の手にある大きな貝をひょいと掴んで、手の中で転がしながら傍らに置いた。 「あ、でも」 「うん?」 「…謙信様から白い貝殻を頂いた時から、少し、大丈夫になったのでしょうか?」 近付いて来た謙信の肩に額を乗せる。 「ああ、あれはまだ持っていてくれているんだよね」 「はい」 「……」 柔らかな頬に謙信は指を当て、反射的に上げた顔に―――、その額に額をこつんと付けた。 「っ」 「ひーめ。…おめでとう」 「あ、はい。ありがとうございます。もう祝って頂けるようなのではありませんけど」 「そんなことはないよ。毎年こうして過ごせる事はとても幸せな事だ。…でも、そうだな、じゃあ…君が生まれた事に感謝を」 額はそのままに目を閉じ。つられて沙那も目を閉じる。 目を閉じると途端、辺りの音を大きく感じる。 ――――外の強い風の音。波が岩を叩き、それが落ちる音。そして、雨が建物を叩く音。 「……雨」 「あ、強くなりましたね」 「…この時期は、結構晴れる日も多いのだけどね。でも、今日の天気…私は残念には思わなかったな。君は少し残念そうだったけれども」 目を開け、ゆっくりと額を離す。そして、視線を合わせ。 「傘を差して歩けば、寄り添えるし、歩みもゆっくりになるだろう?」 「あは、そうですね」 「―――それに」 延ばされた腕に素直に力を抜いてその白い着物に身を預ける。 「…謙信様……」 「強くなった雨は、…君を帰したくない、のかもしれないね。私の気持ちを代弁してくれているような」 自然と強くなる腕に、沙那は顔を上げて笑い。 「まあ、遣らずの雨、ですか?そんな事を」 「うん、今はそう笑ってくれるけどね…」 知っているかい?と続け、自嘲気味に笑う。 「君が私の手から抜けて行ってしまうかもしれないと、まだ、不安定だった頃。…雨が降る度に私は少し安心していたんだ」 「?…」 「ああ、この雨は私の言葉を代弁している、味方をしてくれているって。…はは、雨なんて降る時は降るのにね」 ふ、と息をつく。 不安定な頃を思い出し、思わず出てしまったため息。 「あの頃の君は、色々に締め付けられていて。…消えてしまいそうだった」 「…け…んしん さま…」 「ふ…ごめんね。…そんな寂しい顔をさせる気なんてなかったのに」 その言葉に沙那は自分の頬に手を当てる。いつの間にか笑みは消え、泣きそうな顔をしていたらしい。 「っ……あ」 自らの少し冷たい指先で我に返り、それからふわりと笑う。 「! ……。嬉しいです……。そんな風に思って頂けていたんだって」 「おや、意地悪だな。私は不安に思っていたのに」 「嬉しいですよ。…謙信様が私を心配して下さるんですもの。…ふふ、申し訳ない気もしながら、…でも…」 じわ、と熱くなり、目尻に浮いた雫を指で拭う。 「…全く、沙那姫は…」 人差し指で唇を辿る。ぴくりと肩を揺らす沙那を見、くす、と笑いながら続ける。 「ね、今日の雨は…やはり私の気持ちの代弁かな…?」 「…私の、でもあるかもしれませんよ…」 優しい指に、かあっと顔が熱くなっていく。 どくんどくんと胸の音が煩い。 「さっきは…あぁ、出かける前までは、謙信様の仰った通りに、雨、嫌だなーって思っていたんです。折角出かけるのにって。でも、…今日の雨は、私の……あは…」 「ふ、沙那は……何を、引きとめているのかな…?」 分かっている答えなのに、返答をその声で聞きたくて聞いてしまう。 「それは…っ…」 小さく首を傾げ、微笑む謙信。離れた指、手は膝の上に。 その膝の上に沙那は手を重ね、こそりと耳打ちをした。 「――――」 「ん。…それで、どうしたいの…?」 甘く囁く声に。 「ん、もう!謙信様こそ意地悪ですよ」 「意地悪で結構。…だから言ってよ」 「……。外の音を聞きながら…傍に…」 沙那はそのまま謙信に腕を回して、ぎゅっと抱きしめる。 「……ああ」 す、と息を吸い。沙那の肩越しから見える障子の一点を見つめ。 その向こうに広がる、今は雨模様の空。 沙那の胸の音と、外の自然の音。 「…私の、姫――――…」 その身体を抱きしめ返し、謙信はしばしその音たちを聞き入るように目を閉じた。 「ねえ、明日も雨が降っていたら…もう一泊してしまおうか?」 綺麗な模様を持つ一枚の布、それに二人、包まれながら。 「!…あ、駄目ですよ。それこそ景勝や兼続の負担に―――― ん」 少しむくれたように言う沙那の言葉を、指で止め。 「おや。あの子達なら大丈夫。言っただろう?任せてくれって言われたと」 「……」 「天邪鬼な沙那姫?…駄目ではないよ、だって、その顔は私と居たいって言っているもの…」 |
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作中で言っていた去年はこちら。 姫の誕生日。 姫、どんだけ貝殻収集してるのよ(笑)。 挿絵 感想・要望などございましたらどうぞ『WEB拍手』 back |