啓 子 詩 集 新 作 |
小野啓子
山の中のホテル
同じ会の仲間は
おだやかな寝息をたてている
なぜだか寝つけない夜に
打ちつける風音は
いつしか潮騒のメロディー
初めて行った海は 肌寒く
砂浜に佇んだまま
曇天の下 遠くの波間を見ながら
本の中の一場面を思い出していた
尾ひれで波を叩いて
長い髪の人魚が
こちらの様子をうかがいながら
泳いで来ていないかと
光の届かない海底
岩の割れ目の奥に広がる住み処
海水の冷たさに
住み続ける辛さを思った
白い肌 赤い唇
フルートのように流れる歌声
何一つ探すことは出来なかった
夢と幻の海
耳に当てた巻貝の中で
なじみのない磯の香りを残して
霊長類ヒト科
小野啓子
口にしなくても インスピレーションで伝わる言葉
瞬間移動で行動する人々
自然の森に調和したビル
そこに存在する特別な一室
ドアを開けると
部屋の中一杯に広がる宇宙
この宇宙は誰かの実験室なのだ
隣の部屋では研究者が
監視カメラの映像を見ながら
人間の観察日記を付けている
道をつくり車を走らせ
飛行機やロケットを飛ばす能力を持つ
木を伐り 森を壊し街をつくる
言葉を持ちながら
人間同士殺し合うことを常とし
時には助け合う様子も見せる
研究室の人間は談笑する
人間とは面白い生き物だ
地球はこの先どうなるのか
果たして滅亡か再生か
地球は壊れかけてなお 欲望のままに
政治家は茶番をくり返し
この星のメルトダウンを楽しもうと
諦めてしまった科学者達も
明日への歩みを止めようとしている
地球という星で生きる
知恵を持った人間という種族が
今試されている
自分に出来る事をしようと
頑張っている人がいる
最後まで続ける粘り強さも底力も持っている
だから
再生できると信じている
もう後はないのだから
呼び名
小野 啓子
ママって呼んでいい?
中学生になった娘が言う
日本人なら ママはないだろうと
赤ん坊の頃から
お母さんと教えていた
今さら なぜ?
何か思うところがあったのだろうか
「いいよ」
と軽く返事をした
一時的なものかと思っていたのに
上の子も一緒になって
呼ぶようになった
中学生は高校生に
上の子は大学生になった
それでも相変わらず続いている
外では母と言うんだよと言えば
「分かっているよ」と返ってくる
ママなんていう年でも柄でもないけれど
呼ばれた時には
いつでも
明るい元気な返事をしたい
越冬
小野 啓子
近づく足音を察知して
椋鳥の群れが
一斉に大地から飛び立つ
白っぽい空の色を背景に
電柱ほど高い桑の木がそびえ
鳥は羽音と共に
枝という枝に飛びついていく
影絵のように
白と黒のコントラスト
視線を落とすと
取り残した白菜畑の
丸く巻いた頭からついばまれ
堅い筋を残して
食べ尽された沢山の白菜
害鳥として困り者ではあっても
吹きすさぶ雪の中
命をつないでいると思うと 愛しくもなる
私を凝視する鳥の緊迫感
歩き出して通り過ぎてしまえば
何事もなかったように
ゆうゆうと 枝から降りて来るのだ
花
久々に会ったその人は
整った顔にしわが目立ち
七十五歳という年齢に
花の枯れゆく様を見た気がした
いつも颯爽として
内心憧れていた
生花なら
いつかは枯れ果てる
それは時の無常なのか
女優のように
美容外科に通いつめ
驚くほど 若くいることもできる
変わらぬ姿であってほしい
それは そのまま
老いてゆく自分への 抵抗感でもあるのか
自然のままが美しいと思う
それでも願ってしまうものなのか
造花でありたいと
信憑性
百階建てのビル
さあ、貴方は何階に行く?
娘が問いかける心理テスト
高い所から眺めて見たいから
百階がいいな
お父さんは?
一階だな
ちょっと困惑した顔で
娘は言う
これはプライドの高さ
プライドー自尊心
自分を偉い者とか、名誉に思うこと
自分の品位、人格を保とうとする気持ち
辞書を見比べ考える
普段 意識したことはないけれど
誰もが持つべき必需品?
五十偕くらいが丁度良くて
百階では高すぎる?
本当にテストの結果を信じられるのか
百階建てのビルのエレベーターを
上がったり下がったり
答えに戸惑っている
喪失
毎月毎月 わずらわしく思っていたのに
音沙汰がなくなると
忘れ物をしたようで
身奇麗になり軽くなった
それなのに
もう身ごもることが出来ない
そんな執着心が
画鋲の先のように
チクリと 大きな安堵をつつくのだ
ビデオテープを早送りされ
若い日の姿から
テレビ画面の中を右往左往しながら
スイッチが止まり
今再生されたような
葉を閉じ
香水のような香りのする合歓の
木の下で見ている
昼の終わりを華やかに区切る 夕焼けの茜
そして思うのだ
これから展開する闇と月
陰に包まれた幽玄の世界を
未知
人の命の起源を見つめる時
テレビの番組から聞こえてきた
ダーウィンの進化論は まちがいである
猿は いつまでたっても猿
トカゲに宇宙人のDNAを注入したのがルーツだと
宇宙人に会ったという人が
宇宙人は何でも答えてくれた と言う
うっかり信じて良いものか
でも真実かも知れない神秘
暗い北の窓から宇宙をのぞく
地球に入り込んで
私達をそっと観察しているのだろうか
アーモンドの形の
大きな瞳で
培養されたDNA
この命に宿っているかも知れない
謎だらけの世の中
いつか出会える日が来るのか
宇宙船や
見たこともない
光り輝くような人たちに
ニホンタンポポ
たんぽぽにも セイヨウタンポポと在来種のニホンタンポポがあって、その違いは随分前から知ってはいました。それが十数年位前に片品の実家の近くの川原でニホンタンポポを初めて見つけました。そして1株を家に持ち帰って裏庭に植えたのですが、日陰だったせいか絶えてしまいました。それでまた次に2株採って来て、今度は日向に植えました。それは順調に育ち、数年経って庭の別の所に2株小さなニホンタンポポが生えていたのを見つけて嬉しくなってしまいました。
そしてそれから種を蒔いて増やしてみようかと綿毛を取って蒔いてみました。何回か芽が出ないままでした。
3年前に2〜3株ほど芽が出て種蒔きに成功し、去年は10株以上芽が出て全部で30株くらいになりました。
実は、日本のたんぽぽの在来種の22種類あるうち、最近は、染色体が2倍体(カンサイ、カントウ、シナノ、トウカイ、セイタカなど)のものは、すべて1種類にまとめ、ニホンタンポポとされているようです。その他は、エゾタンポポ(3、4倍体)シロバナタンポポ(5倍体)などがあるようです。
ところで調べてみると、ニホンタンポポは染色体が2倍体で同一個体の花粉同士では受精が行なわれない「自家不和性」という性質があり、基本的には、遺伝的に多様な集団がないと繁殖できないということです。
しかし、どこでも見かけるセイヨウタンポポは ほとんどが3倍体で、花粉がなくても子供ができる。受粉しないで細胞分裂を行い、クローンを作って増えるというのですが、春に咲くものの中には、不完全ながら花粉を作り、受粉可能なものもありニホンタンポポと交配して雑種を作り出しているそうです。
ということは、もしかしたら、私の殖やしたものも純粋なニホンタンポポでなく雑種かもしれないということです。純粋なニホンタンポポを増やすことは無理なのか。ニホンタンポポの原種は残すことが出来ず、いつか淘汰されてしまうのだろうかと目の前が暗くなるようで、落胆してしまいました。
セイヨウタンポポは外総苞片(がくの部分)が反り返っていて、ニホンタンポポとの違いは一目瞭然ですが、ニホンタンポポと雑種の違いは分かりません。
家の庭にもセイヨウタンポポは沢山あって、四季を問わず咲いています。でもその事を知って以来、見つけると抜いたり除草剤をかけたりしていますが、今となっては遅いのかも知りません。
とにかく気を取り直して、それはそれとして、今度は、最近見つけたニホンタンポポの群落の場所に行き綿毛を取ってきてそれを蒔いて殖やしてみようかと思っています。
もしそれが、雑種だったとしても仕方のない事ですが、とりあえず殖やして、欲しい人、興味のある人に差し上げて、可愛らしい日本のタンポポの花を見て頂けたらいいなと思っています。
因みに、根はキンピラ、葉はサラダ、花は天ぷらにして食べられるそうです。
役割
明日は日直に給食当番
掃除はトイレ
最悪 面倒くさいな
帰宅早々娘のひと事
今でも時々見かける
教室に貼ってある
丸い当番表
同じかもしれない
考える間もなく
結婚したとたん
妻という役割を振り当てられ
共働きでありながら
掃除 洗濯 朝早くからの お弁当作り
子供が生まれ
母と言うラベルが付け足され
おんぶに抱っこ おむつ替え
当たり前の顔して
育児も家事もこなしていく
それが大人になるということなのか
娘にも冗談半分おどけてみせる
面倒だから
今日の夕食 カスミでいいよね
秋空
老人介護施設の車が着いた
杖をついた老人が長椅子に座る
横に座った青年介護士が話しかける
すごく 真っ赤に
沢山りんごがなっていますねェ
わかりますか?
そうかね
全く見えない
目の病気だから 仕方ないね
そうですか 仕方ないですよね
思いの込もった一言
記念撮影の後
若い女性介護士が
手にしたりんごの匂いをかぎ
車椅子の老婦人の鼻先に持っていく
どう?
いい香りだね
美しいねェー
初物だよ
薄く切ったりんごを口に運び
おいしいねェ
初物だよ
秋空に
りんごが鮮やかに映え
頷く介護士の
微笑みもまぶしい
農作業日誌 秋
秋、一番のりんごの作業は収穫ですが、収穫の前にする事がいくつかあります。
一つは葉摘です。りんごの実に葉がペタッと張り付いていたりすると、その部分だけが赤くならず青っぽいまま残ってしまうので、りんごが陰になる、邪魔な葉を取り除きます。また、玉まわしと言って、りんごの半分、日に当たる方は赤くなりますが、半分は日陰で青っぽいので、青い方を日に当たる方に回してやります。
それからシルバーシートを木の下に敷きつめ日の光を反射させ色つきを良くしてやります。
そういった作業は秋は裏方の地味な作業となります。 観光りんご園という仕事柄、人と接することが多く様々な方とお会いしますが、先日、旧年来りんご狩りのお客様というご家族との間に嬉しい事がありました。
最初のりんご狩りに来園されたのは二十年も前になります。ご夫婦と小学校低学年のお姉ちゃん、幼稚園生くらいの妹二人の五人家族でした。
年に一度、毎年来園され、皆でにぎやかに楽しそうに畑でりんごを取ったり食べたりしていかれました。そして十年目くらいの年にお父さんとお姉ちゃんたち二人だけでの御来園でした。「お母さんと妹さんは?」と聞くと、「妹は病気で入院しているから、お母さんも付き添いで来られない」と言うことでした。その時病気の娘さんは中学生になっていました。背は低くても明るく元気なお母さんと、妹さんがいなくて、それでも無口で優しいお父さんと、二人の娘さんは仲良さそうにりんご狩りをして帰りました。
いつもりんごの仕事や売店の手伝いをしてくれている人達と、どうしたのかね、と心配していました。
その翌年、また三人での御来園でした。
りんご狩りをして、畑から帰って来た三人にお茶を出し二言、三言の会話で妹さんの病気が治っていないことがわかり、それ以上は聞くことが出来ませんでした。もいであった売店のりんごを別の袋に詰め、お母さんと妹さんにお見舞いとして渡して…と持って行ってもらいました。
娘さん二人はお礼を言って車に乗り込んでいきましたが、その後姿が寂しそうで、なぜか不安な気持ちが広がってしまうのでした。さらに翌年、また三人だけの御来園となりました。りんご狩りをして畑から帰り、お茶を運んでいくと、「妹は亡くなりました。お母さんも一緒に来たのですが、ここにはどうしても来られないと、近くのお店で待っているのです。」
上の娘さんは淡々とそう言ってくれました。そうですか……と言うしか出来ませんでした。あまりに楽しかった思い出の沢山あるりんご畑、元気だった姿を思い出すと、辛くて泣けてしまうのでしょう。お母さんの気持ちが痛いほど解かるような気がして、それでも、帰り際には、「来年はお母さんも一緒に来られるようになるといいね。」と声をかけました。
そして、それからお母さんは来園されることなく三人のりんご狩りは続きました。一年に一度、一時間ほどのりんご狩り、そしてその中のわずかな会話での触れ合いしかないのに、なんだか深いつながりがあるように思えます。これが縁(えにし)というものでしょうか。今年も、やはり三人で来られたのですが、上の娘さんのお腹が大きくて、聞くと、来年三月が出産予定日といいます。「お父さんはおじいちゃん、妹さんはおばさんになりますね」と軽く言うと、お父さんは静かに照れくさそうに笑って見せました。
娘さんは嬉しそうに、「来年は赤ちゃん連れで来ますね。母も孫が出来たら一緒に来られるんじゃないかな」と話してくれました。
ずっと三人のりんご狩り、やっぱり寂しかったのだろうとしみじみ感じました。そして赤ちゃんと一緒に、家族皆でりんご狩りにおいでになる事ができたいいなと、今、心から願っています。
草むしり
花の蕾が膨らんでくると
また伸びてきた草が気になる
鎌を手にして
花の根元は 傷付けぬよう丁寧に
草は根から深く引き抜く
紫陽花の所まで
目標を決め続ける
山登りはしたことはないが
解かるような気がする
クライマーズハイ
次はツツジの所まで
きれいに咲かせたいという思いを超え
四、五時間
取り憑かれたように続けている
全身汗びっしょりで
お腹が痛くなってくる
そこまでいくと
次の日は寝込んでしまうのだが――
シャワーを浴び
着替えると
体の中から悪いものが全て出て
魂までも浄化された気持になる
主演
物心ついた時から
いつも脇役でいた
家庭、学校、職場
私の回りの人気者たち
まぶしく羨ましく見ていた
子供が生まれ
生活の全てが子供中心に回る
小さなスターが笑えば心が踊り
泣けばそれ以上に辛くなる
家族との小さなドラマの中で
助演者でいられたら それでいい
暮らしの中で出会う
災いという敵と戦いながら
自分史の中では
いつも主演なのだ
上毛新聞↑紹介記事2008.9.8
農作業日記 春
林檎の作業は一年を通してありますが、春は摘花(果)の季節です。その年によって違いますが、四月下旬から五月上旬にかけて開花になります。花は一箇所から五輪出ます。中心花を残してほかはすべて摘み取る一輪摘花をしますが花が咲いてから三十日くらいまでに行ないます。これは家族だけでは無理なので手伝ってくれる人を頼んで行ないます。通例では五月連休明けから始めます。その後一ヶ月かけて仕上げ摘果をします。そして収穫まで、変形、傷など取り除く見直し摘果が続きます。
この摘果は残された実を大きくさせることは勿論、着色や、糖度も良くさせることになります。更に次の年の花芽を多くして隔年結果を防ぎます。
連休明けより私の家では三人の方に手伝いに来てもらいますが、ラジオを聴いたり皆でおしゃべりしながら一本の木をみんなで摘果して、次の木へと進んでいきます。仕事は単調で、三脚の上り下りも疲れますが、おしゃべりは楽しく、三脚に上って高い所から時々遠くを見たりするのも、晴れ渡った空の下で働く事も、とても気持のいいものです。
でもその他に楽しみな事があります。毎年摘果をはじめて数日すると、カッコウが現れることです。今年は五月二十二日に、去年も同じ頃に初鳴きを聞きました。町中に響くようなあの声を聞くと、清涼剤のように胸がすっとして、今年も来てくれたと嬉しくなります。
カッコウはユーラシア大陸に住み、冬は南アジア、アフリカへ、日本には夏鳥として来るようです。八月下旬に旅立っていくようですが、それまでは、鳴き声を聴かせてくれます。『カッコウ、カッコウ』と鳴くのはオスで、メスは『ピピピピピッツ』と鳴くそうです。又カッコウといえば他の鳥の巣の中に卵を産み、育ててもらう托卵で有名ですが、どうしてなのかな? ずいぶんものぐさな鳥だと思っていました。今の所全ては解明されていないようですが、カッコウ自身の体温を保つ機能が低いという理由があるようです。
そして色々調べてみると、文学的には『閑古鳥が鳴く』の閑古鳥はカッコウなのだとか。私にすればカッコウの鳴き声を聞くと、清々しい、爽やかな感じを受けますが、昔の人はカッコウの声に、もの寂しさを感じていて、松尾芭蕉の句にも『憂きわれを さびしがらせよ閑古鳥』と言う句があるという解説文もありました。
カッコウばかりでなく回りの畑や林の中から『ケン、ケン』と雉の声がしたり、時には目の前まで出て来て姿を見せてくれる事もあります。小さい時読んだ桃太郎の昔話に、雉はケンケンと鳴き、と言う一説がありましたが、その頃は近くに雉はいなかったのでしょう、声を聞いたことがなくて、沼田に来てりんごの仕事をするようになり、初めて声を聞き、本当に『ケンケン』なのだと得心し、感動した覚えがあります。同じ頃、山の高い木の上で『コンコンコンコンコンコーン』と、勢い良く、木を叩くキツツキもいたのですが、それは残念な事にこの頃全く聞かなくなりました。
それからもう一つ、林檎のふじの花が咲き終わり、花から小さな実となったものを摘果している時に、ふじの八重の花がたまに、咲いている事です。清楚な可愛らしい白い花で、毎年摘果中に誰かが見つけると『薔薇咲があったよ』と声を掛け合い、皆で見たり、主人は写真を撮ったりして、今年は花が多い、少ないと話したりしています。林檎はバラ科なので、そういった八重も出るのかもしれません。
他にも、畑に沢山生えているクローバーの、四つ葉の葉を見つけて、押し葉にしたり、毎日が体力勝負の中で、ほんのちょっとした事ですが、私にとっては、キラッと輝く宝石のようなひと時に思えるのです。
小野 啓子
次女が小学生の時、春祭りで、金魚すくいをした金魚が八匹中、四匹生き残っています。丸五年、今年で六年目になります。
金魚も、小さい時は水替えなど、子供たちもしていましたが、体長十センチくらいになり、今では「大きくなって、なんだか気持悪い」と言って、水替、餌やりはすっかり私の仕事になってしまいました。
水替えも、初めはバケツに汲み置きしていた水を使っていましたが、私も段々雑になって、水道からそのまま、水槽に入れていますが、沼田の水はカルキの臭いも少ないので、金魚も平気で、元気に泳いでいます。
餌をやろうと袋を持つと、餌をもらえると分かって、口を開けてパクパクしているので、何だか可愛く可笑しいのです。でも、メスが卵を産むようになると、メスの金魚を追い回し、オスの金魚とかが卵を食べてしまうので、見ていると、何だかそれだけは腹が立ちますが、どうにも仕様がありません。卵をかえしてみようかと思ったこともありましたが、とても難しそうなので、あっさりと諦めてしまいました。
信仰
片品の
山懐に暮らしていたから
沼田に来て
初めて知った山の全体像
空に向かい
鋸のように描く稜線
日本武尊信仰にもとづく武尊山
ある日
突然見えたのだ
武尊が天を仰ぎ
眠っている横顔
山は山でなく
尊に変わった
朝の挨拶
夕べの祈り
尊に向かい 胸の奥で囁く
いつまで待っても
有り得ない奇跡
それでも美しい横顔に切望する
長い眠りから目醒め
涼しい瞳を向け
語りかけてくれる事を
記憶
記憶の断片は
ジグソーパズルのかけらのように
手にすれば
小学五年生 あの頃が映される
体育館の裏に来て
呼び出された放課後
何度目かのことで内容は分かっていた
明日先生の授業ボイコットする
今度は 女の子全員だから
絶対一緒に来て
一クラス十七人
九人の男の子の中に一人
教室に残った
若くやさしい男の先生
裏切りたくないという 幼い正義感
頷くことなく
その場から 走り出す
つかまれたランドセルを放り出し
に駆け戻った
驚いた父と母の顔
バツの悪そうな表情で
私のランドセルを持って現れた女の子たち
記憶はそこで途切れ
後の事は思い出せない
二学期終わりのクリスマス会
段ボール箱に一杯の駄菓子
丸くあけた穴から
つかみ取りをさせてくれた
先生の笑顔と 皆の笑い声
その一ピースだけが
鮮明に光を放っている
Violeta No.12
主人公
夫は某漫画の主人公に似ている
自慢ではない
気が短く
感情の起伏が激しい
すぐどなる
他人からは
気軽に話しやすく
明るく元気で頼りになるらしい
年上の人からは
からかいを込め
おぼっちゃんと言われている
理論的なことは苦手
ほとんどの事は
直感にまかせ動いている
嫌な事には逃げ腰で
好きな事、興味のある事は
飽きれるほど執着して
思うようにできるまで続ける
驚くほどの集中力
もちろん負けず嫌い
健康にも信念にも
確証の無い自信があり
忠告に耳を貸さない
奔放のわりに
約束の時間だけは きっちり守る
漫画の主人公も
現実にとび出してきたら
容姿、年齢は別にして
きっとこんな感じ・・・・・・
ただ私は、テレビアニメの中では
勇敢であり冷静沈着
優しい人物に 心惹かれている
真実 Violeta.No.10
念願の
地デジ対応の液晶テレビが届いた
きめ細かな 深みのある映像
子供たちの感嘆の声
娘の微笑みも
ブラウン管から
液晶になったほど変わったような
次の誕生日が来れば
五十歳になる私――
厚い取扱説明書
誰にともなく
ぼやきながらページをめくる
こたつに両手をのせ
掛け声と共に立ち上がり
はっとする
歳は取るものだけれど
遠のいていく若さに
手を伸ばし
追いすがるほど哀れになる
だから 振り切って 姿勢を正す
いつも
子供たちの前で口にしている
今が一番幸せ
その言葉だけは 真実でありたい
波紋
思春期の子供もいるのに
道ならぬ恋を取り
家を出て行った
信じられずにいた 友の行動
いつも朗らかで
元気に働いていた
もしかして 同じように私も
くすぶっている思いを
見て見ないふりをしていただけなのか
胸の中に起こった
心細く 言いようのないさざ波
池の底から 湧き立つ泡のように
欲望だけでなく
生意気な
口をきくようになった子に対しての不安や
成長への安堵
夢中で走ってきて
ふと立ち止まった 足元の頼りなさ
糸を持つ人がいて
空を自由に飛べる凧
その手を離れた時
風に吹かれ どうなるのか
よく解かっているのに
感じてしまったのだ
糸を切ってしまいたくなる刹那を
小野啓子
沼田公園の一角に
復元された鐘楼がある
春には桜、つつじ
夏の青葉
秋の紅葉
冬の雪景色
夫は鐘楼を焦点に
公園に通い趣味の写真を撮る
昔は朝に夕に鐘をついたという
車の音や工事の騒音も
テレビやCDもない時代
鐘は沼田台地の木々の間を
染みこむように通り抜け
低く深く響いたのだろう
季節ごと畑仕事で聞く
お昼のサイレンや
隣村から流れてくる3時、5時のチャイム
形は変わっても 昔から受け継がれてきた
時の音に耳を澄ませる
大都会
小野啓子
窓辺の重いカーテンを開けると
狭い中庭をはさんで
向かいの部屋が見え
ビルの高さで 空は見えない
住めば都で
私もここに住んだら
いつか懐かしい風景となるのだろうか
東京新宿の一夜
巨大な街の発する威圧感
ホテルのベッドに身を沈める
窓を開けると
その日により
違った空が顔を見せ
山や畑が広がっている
緑が見える安心感
田舎者だから と
笑いとばせない
こわばった 今の気持ち
目の回りそうな 人波の中を歩き
トイレと一緒の風呂場でシャワーを浴びた
緊張感を流しきれぬまま
明日の予定をおさらいし
今夜は クーラーの音を子守歌にする
熊が出た!!
小野啓子
この秋は、全国で熊の被害を受けたり、人が傷を負ったりというニュースが報道されましたが私の住む沼田でも同じように熊が出たので注意するようにとの話があちこちから聞こえてきます。例えば、学校の通学路の辺りだったりすると、下校時は、登校班で集団下校になり、先生が途中まで付いて送って行ったり、沼田公園に出たというので、その付近が立ち入り禁止になったりもしています。
家の裏に愛宕神社という鎮守の森があって、そこに親子づれの熊が出たと聞きそれから2、3日した朝、近所の人から電話があり、「お宅の家と隣の農協の建物の間を小熊が歩いていましたよ」との内容でした。私はマンガのように目が点となり、頭の上にハテナのマークとびっくりマークが??!!!と並びました。
急いで夫に報告すると、夫は車で電話の主の所へ駆け付けました。時間は7時前、気にはなるけれど台所から庭を見ながら長女の弁当を作り、子供たちに朝食を食べさせているうちに夫が帰って来ました。小熊の行方は不明で、どこにいるのか見当はつかないということでしたが、電話をくれた人とは別に道を挟んだ向かいの家の奥さんもゴミだしをしている時に私の家の庭を犬のようにピョンピョンとはねるように走っている熊を見たと言っていたということなので本当に驚きました。興味と恐怖が入り混じってそれから外へ出るには、戸を少し開け、庭を注意深く見て熊がいない事を確認してから外に出るようにしていますが、その朝7時40分子供たちを夫と私とでそれぞれ学校へ送っていきました。
去年は、山の木の実なども豊作で、熊も増えたのに、今年は、木の実も不作で山に食べ物がなく里に出て来るのだろうと熊にくわしい人は話していますが、私が嫁いでから20年、こんなことは一度もありませんでした。
愛宕神社の裏手のあたりは、切り立った崖でその下には川が流れている谷になっています。
最近そこに橋がかかり、山手の集落にも回り道せず行けるようになり、便利にもなりましたが、その橋を熊が渡っているのを見た人もいて、熊も簡単に谷を越えて人家の多い町にまで来るようになったとも言えます。ちなみに、私の家は、沼田インターより車で2〜3分の所にあり、20年前と比べると周りも、コンビニ、ケンタッキーフライドチキン、マクドナルド、ミスタードーナッツなどのお店も増え、にぎやかになっています。小熊とはいえ、小熊だからなのかもしれませんが、車の通行量も多いこんな場所にでてくるなんてと、怖さを知らぬ無謀さに、怖さを感じましたが、親とはぐれたのか、あるいは、様子を見に(下見に)来たのか。それにしても、動物が里に出てくるのは、山を切り開き、雑木林をなくし、道を作り、橋をかけ、山の動物が、静かに山の中で暮らしていた環境をこわしてしまったことが原因なのでしょう。前から言われていてことですが、実際に自分の身の回りでおこると困惑したり、迷惑だったりもしますが、もとを正せば私達が便利や豊かさを求めた結果なのだと、痛感します。熊の他にも、村部では、猿やいのしし、鹿などの被害にもあっているようです。今年沼田では60頭の熊を捕獲したようです。そのことをどう考えたらいいのか――。
山々に熊、猿、鹿、猪、たぬきなど、動物が沢山いて、人間とうまく共存してきた昔からの暮らし。その豊かで、理想的な暮らし方が今、壊れていくのを感じています。
人間の文明とは、前に前にと進むことしか出来ないのでしょうか。止まったり、引き返すことは無理なのでしょうか。
地球の未来を予測した「フューチャー・イズ・ワイルド」という本があるそうですがそれによれば500万年後の来るべき氷河期までには人類は滅亡し、その後には鯨並みの巨大なペンギンがフランスに現われ、森林が燃え尽きてサバンナになったアマゾン流域には、最後の霊長類で、四足で走り回るライオンみたいな猿がいたり、2億年後には海に住むイカが地上に出てくるそうです。大きな脳を持ちひょっとしたら人間のように、論理的な思考をする可能性もあり、イカ社会を築くそうです。
知恵を持ちながら、便利に豊かに暮らすために忙しく働き、山を切り開き、川や海を汚し、戦い傷付き合いながら、結局、人類は立ち止まることなく、滅亡への道を突き進んでゆくのでしょうか。
映画のように、未来を変えることが出来たら……そのためだったら、一歩引き返して便利さが、少し不便になってもいいのではないか、と熊の一件から、そのことを身近に感じ、改めて深く考えるようになったこの頃です。
(それぞれの後記)
今回よりviolataの仲間に加えていただくことになりましたので宜しくお願い致します。
春に映画化されたデスノート前編がテレビでアニメ化され、11月には映画後編が公開(上映)されます。
私には中1と高1の娘がいますが、子供のおともで映画を見て来たり、テレビも見ています。到底子供がいなかったら見ていなかったと思いますが、見てみると興味深く、引きつけられる内容で、登場人物も個性的な人物で面白いのです。
死神が故意に落としたデスノートは、拾った持ち主が殺したい人物の名前を書き込むと、書かれた人は死んでしまうというものです。主人公の夜神月(やがみライト)は東大にトップで入学したという天才的な頭脳を持ち、デスノートを拾い、強い正義感から法律で裁くことの出来なかった事件の犯人や、刑務所内の罪人、悪人と呼ばれる人々を次々と殺していくという内容です。
それをつきとめようと追いつめていくのが、難事件を次々解決していくやはり天才と呼ばれる、通称L(エル)。
そしてLからの指示で動く警察のトップは夜神月の父親。後編の映画も楽しみですが、本当に、漫画(劇画)とは言え、作者の想像力の深さというか、すごさに、うらやましいという思いを越えて、圧倒されるばかりです。ハリーポッターを読んだ時にも同様に、同じ脳なのに、どうしてこうまで中身が違うのかと、尊敬と憧れの気持ちでいっぱいになりました。そういう人たちがいるお陰で、子供たちも私も驚いたり感動したり、楽しめることが出来るのですね。感謝、感謝。
(小野)
望み 詩集「想い」掲載
今 私の両手には
沢山の真珠の球が積み上げられている
純白の丸い珠が
日ざしにまばゆく輝いてみせる
赤いルビー
青いサフアイア エメラルド
どれを欲しがって手を伸ばそうとしても
小さな白い珠はこぼれて落ちる
ポロポロ ポロポロ
崩れて落ちる
今の暮らしと引きかえに
欲しい物など何もない
人魚姫のように
儚くときめく恋も
楊貴妃のような毎日も
せめて望みが叶うとしたら
一秒一秒を刻む時が
もっとゆっくり
ゆっくりと穏やかな
大河のような流れであってほしいのに
再会 群馬詩人会議「夜明け137号」掲載2003. 4/12
今年も来てくれたお馴染みさん
幼稚園生だった子が
今二十才の娘さんになった
去年病気だと来なかった末の娘さん
付き添っているというお母さんも来ない
妹は亡くなりました
母も近くまで来ていますが
どうしてもここに寄る事はできないと言って
何の病気だったのか分からないけれど
末の娘さんの
幼い頃からの姿が
売店の中にりんごの木のあちこちに
顔をのぞかせている
私の1年
この家族の1年
秋に巡り合うたびその表情を変え
今年はりんごと引き替えに
寂しい微笑みを残していった
雪と風の中で
胸にしまい込んだ
重い涙色の預かり物
お母さんが
来園できるようになる日が来るのだろうか
再会を望み祈りながら
ひんやりと
冷たいりんごを手にする
印度りんご 群馬詩人会議「夜明け135号」掲載2002.10.10
りんごの中では一風変わり者
素朴で無口
象の肌を思わせる硬く厚ぼったい表皮
畑の中で
たった一枝
昔の名ごりで残してある
なつかしいね
あの頃は高級品種だったと
年輩の人が口々に手に取りながめている
名前も印度と不思議な気もする
種を日本に持ち込んだ
宣教師ジョン・イングの名にちなんだ
そんな説もあるけれど
宮本武蔵
本の中の主人公が
畑の中を風のようによぎって行った
この林檎は私にとって
謎めいたヒーローなのだ
口に含めば
りんごと思えない歯ざわり
洋梨のようでもあり
酸味のない
優しい香りが広がっていく
声 詩集「想い」掲載 平成十四年九月六日追加
ゆったりと手足を伸ばす
軽く目を閉じると
四角い湯舟は
うすぼんやりした羊水の海
突然
叔母の顔が思い浮かんで
私の名を呼び
声をたてて笑った
時々暗く曇った空に
虹の孤を描いて勇気づけ
明るい響きは
叩きつける砂嵐を吹き飛ばしてくれる
私は胎内にいる時から
その声を聞いていた
生まれる前から知っていたのだ
から好きなのかその声も笑顔も
目をあけると
暮れに替えそびれた蛍光灯が
新品のように
まばゆく照っている
残像 9月4日追加
からんだ糸玉を抱え
畳に横たわる
蛍光灯を見据えたまま
目を閉じると
青く円い残像が
まぶたの中で浮き揺れている
やがて青から緑へ
緑から黄
黄から赤
はっきりと鮮やかに
赤く色どられた
新月の夜空の中
突然に
それはパンドラの壺から
最後に飛び出してきた一条の光
希望を象徴するように
思い出文集 詩集「想い」掲載 群馬詩人会議季刊誌 夜明け 133号掲載
実家から持ち帰った
小学校時代の作文や文集
重く詰まった段ボール箱を開ける
ザラザラのわら半紙が
三十余年も経ち
破れそうなページをめくる度
甦ってくる同級生の
あの頃のままの顔
どの子も家の仕事を手伝っていた
病気の母親の代わりに
学校を休んで
畑の草むしりを手伝う子も
弟が生まれ
乳母車を買ってもらい
おんぶが減り子守りが楽になった
そんな私の作文も
子供でも家の働き手だった
桑拾い、蚕上げ、苗取り、田植え、稲刈り
大変な仕事でも
自分が役に立つことが嬉しく
手伝ってくれて助かった
そんな大人からの言葉がくすぐったかった
眠っていた古い紙の匂い
早く大きくなりたい
満ち足りた誇らしい思いが
混ざり合い
立ちこめる遥かな時
老木
葉の数も少なく
赤い実さえ
水気なくひからび
直径30cmほどの樹が
回りに植えられた若木に見守られながら
48年という年月をへて
朽ち果てていく
若木はわい化仕立てで
何年かたち成木になっても
この木のように長く枝を伸ばすこともないし
実ったりんごの数さえ
回りに植えた木を全部合わせても
この老木の一本分に足りないかもしれない
晩秋の冷たい風にさらされるのも
これが最後だろう
寒さにふるえる若木を励ますように
ゆるぐことなく風を受け止めている
涙 小野啓子
岩肌を滑り伝わっていく雨水のように
静かに流れていた
辿れる記憶の中では
いつも自分の無力さに落胆し
思っている事を
友達にさへうまく伝えられない
そんな自分が嫌いだった
大きな口をあけ
耳を塞ぎたくなるような声で
姉妹喧嘩して泣いている娘
拍手したくなるくらい すごいエネルギー
こんな涙もある
見ていて心地よささえ感じる
女優の涼しげな瞳からポロポロと
ダイヤモンドのように
輝きながらこぼれ落ちている
レンズを通した光と影
あんなふうに泣けたらと
羨ましく 見とれ
泣くことへの抵抗もしぜんと薄れていく
流れ込む涙のしょっぱさ
もう一度 唇で確かめている
スターキング デリシャス 小野啓子
数多い種類の中でも
スターが一番好きだという
昔からの色、香りの良さ
上品な形
今ではほとんど新しい品種に
接ぎ木され少なくなってしまった
毎週日曜日になるとやって来る
恋人に会うかの様な顔をして
ほら来たと
みんなで
目くばせしながら笑い合う
その年の気候によって
熟し方も早かったり遅かったりが激しく
童話の中の
わがまま気ままな王女様のよう
うらやましいくらい
その気ままさに
振り回されることを楽しんでいる
畑の一番奥まった所で
今日は一段と魅惑的にたたずんでいる
りんごの皮をむく時 小野啓子
女の子だったら
小学生とはいえども
せめてりんごの皮ぐらい
むけるようになってほしい
丸くむくならくるくると
薄く長く手際良く
切ってむくのもすいすいと
芯を取り
流れるようにリズム良く
病人の枕元であっても
食後のデザートとして
いつか恋人に食べさせてあげるにも
上手に出来なかったら
さまにならない
枝からもぎたてだったら
ハンカチでふいて丸かじりでもいい
沢山の栄養が詰まっている皮は
食べた方がいいに決まっている
それを知った上で
やっぱり
りんごの皮が
上手にむける女の子であってほしい
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