下仁田こんにゃくの歴史
「北甘楽郡史」によると、上州地方にこんにゃく芋が入ったのは、室町時代の永正二年(1505年)大日向村(南牧村)の茂木正峰が、西国を巡遊して、紀州(和歌山)から種玉を持ち帰ったのが初まりだと伝えられています。
また、江戸中期の元禄年間に下仁田のこうじ屋が、常陸(茨城県)から種玉をもたらし、正徳年間に月形村(南牧村)の人が備中(岡山県)から持って帰った種玉が、ともに増殖のもとになったという説もあります。こうして、いろいろな経路をへて導入されたこんにゃくが、下仁田地方の土地条件に適合して定着したものと思われます。
明確な内容で伝わっているのは、明治に入って富岡町(富岡市)の荒物商、篠原粂吉という人が、茨城県久慈郡へ砥石(といし)を売りに行って、精粉事業が盛んなのに目をつけ、生瀬(なませ)村(大子町)の斎藤周蔵をとき伏せてつれ帰り、現在の南牧村羽沢で麦つき水車を改造、精粉をはじめたのが精粉企業の起こりと伝えられています。
次いで明治十六年、月形村の茂木平八が三アールの土地にこんにゃくを植え付け、こんにゃく平八の異名をとったとされます。