祈りの盃、藤の詩 〜勧酒〜


 鳴り響く琵琶の音と、はらはらと舞う雪のような藤の花弁。
 それを受け止めるように手を差し伸べた。


「そんなに離れて座って…、沙那姫?」
 やがて音は止み、ことりと琵琶を置く音。
 苦笑交じりに沙那を呼びながら手招きをする。
「あ、はい」
 時が止まった様に見入っていたが、その声にはっと我に返り、城から持って来てあった盆を持ち直し立ち上がった。
 そろそろと近付くと、待っていたように謙信の両の手が差し伸べられ、まずは盆を受け取り、置く。それから沙那の腕から身体に手を伸ばし、座らせ。
「どうして離れていたの?」
「えっ、と、特に理由は」
 まさかそんな問いを投げかけられるとは思わず、言葉に詰まる。

 ――――月明かりと小さな火の灯り。緩やかな風に舞う花弁。その中で琵琶を奏でる謙信の姿。音色は空気を緩やかに震わせる。
 それらは見事に調和し、別世界のようだった。

「(…なんて……)」
「ふふ、言えない事でも想像していたのかな?」
「いっ、いえ! すごく、綺麗でした。全部、見たくて。やっぱり、謙信様の音色、…好きです」
「ん、ありがとう。沙那姫のおねだりだもの、気合も入るよ」
 沙那の反応にくすりと笑い、琵琶の傍らに撥を置き、風に揺れる沙那の髪を指で掬った。
「ふふ、いつでも素敵ですよ?」

 昨晩、沙那から「お願い」をされた。「藤の下で琵琶を弾いて欲しい。二人だけでゆっくりと過ごしたい」と。
 ただそれだけの願いなのに、「明日、大変でなければ」だの「お疲れでなければ」だの、お願いに辿りつくまでにいろいろ付属されていて、苦笑してしまったが。
 だが、この刻限だ。皆の迷惑にならないようにと、二人でよく過ごしている離れの屋敷に移動して来た、というわけだ。

「藤、今年も綺麗ですね。お庭も山も…」
「ああ、藤と言えば君と忍びの歓迎会を思い出すよ。……淡い藤色、綺麗だよね」
 縁側に舞い落ちた花弁を拾い、膝の上の沙那の手を取ってその手の平に乗せる。
「はい。…あの歓迎会、すごく、楽しかった」
「じゃあまた宴をやろうか。皆を集めてさ」
「…謙信様?」
「うん?」
「ありがとうございます」
「全く、これくらいで喜んでくれるなんてね。…今日は二人だけ……。そうだ、藤の宴、といこう」
「宴、ですか? …あぁ…」
「? おや、その顔…もしかして酒の事を気にしてる?」
 ぽつりと繰り返した単語。しみじみと思い出すような顔に、つん、と頬をつついた。
「んっ」
「ふふ、大丈夫だよ。宴と言っても酒だけじゃない。飲まなくなったからかな、今は特に飲みたいとは思わないし…」
 その手を下げて肩へ、
「……。 !」
「ほら、…こうしてるから。ね?とても心地良いよ」
「………」
 力強くも優しく廻された腕に、一瞬驚きながらも沙那は身を委ね、その胸に手を当てた。
「あ、でも、すごい事ですよね?こう、やめることができるなんて。…ま、まぁそれは私がお願いしたことですけど…」
「はは、もし君が私の元から居なくなってしまったら飲むだろうけど。そう、溺れて呑まれるほどにね…ふふ」
 試すように、少し意地悪気な視線を投げかけ。それを受けて、睨むような視線を返す。
「もうっ!そんな事しませんっ!」
「おや、怖い顔。ふふ、じゃあ大丈夫。 …だって、酒を飲むのは忘れたいから、だったし。もう忘れる理由も意味もないものね」
 自由な片方の手で琵琶の弦をつま弾くと、低い音が空気を震わせ、水面を滑る波紋のように静かに渡っていく。
「―――ふふ…さ、まずは盃を交わそうか」
「え?」
「それ、盆の上。…布、取ってごらん?」
 この離れの屋敷に来る時に持ってきた盆は、すっぽりと布を被っていて、沙那は中身を知らなかった。水と茶菓子だろうと想像していたのだが。


 布を取り払うと、徳利と、梅干と、――――二つの金色の盃。
「あ」
「さぁ、注いでおくれ。越後の雪解け水だ、極上の酒の卵だよ」
 つい、とそれを取ると沙那に差し出す。
「はい」
 そっと徳利を持ち上げると、謙信の盃に静かに徳利を傾けた。
 月明かりの青白い光と、火の暖かな光が混ざり合い、まるで光の帯のようにきらきらと煌きながら盃に注がれていく。
「…私の「酒」を―――」
「……」
「是非とも、受けてください」
 まるで詩を諳んじるような口調に、謙信の動きが一瞬止まり。「ん」と声を漏らした。
「花が咲くと雨も降り、風も吹くだろう……」
 盃を手に取り、ゆっくりとした動作で唇まで持っていきながら、続きを語るようにそう言い、唇をつけた。
「(昨日から思っていたけれど、やはり、か。 …でもね、…沙那姫)」
 息遣いが届くほど近くにある身体をもっと引き寄せ、反射的にこちらを向いた顔に手を当て。
 何処か心もとない顔の沙那にそっと口付けると、含んだ水を半分…。

「―――っ …は」
「ん。 ならば、…私の「酒」も受けておくれ。君と今、同じものをこの身に渡らせたい」
「! は、い」
 まるで酒を飲まされたように、身体が熱を帯びる。謙信から与えられた熱に少し目を潤ませながらもこくりと頷いた。
「…確かに、別れもある。でもそれは一瞬だ」
「一瞬…?」
 くすりと笑い、今度は盃を沙那に持たせ、「酒」―――水を注ぎながら。
「そう、一瞬。…現世にいるなんてきっと一瞬の出来事。人生は別ればかり。私も…たくさんの人と別れてきた。送ってきた。…民や、兵や、…――あの大虎もね」
「……。はい」
「けどね、その人たちと過ごした出来事は、一瞬ではなくて、…ずっと残る」
 目を閉じ、息をつき。
「……いつか、私が送られる時になったら」
「っ…!」
 目を開け、ゆっくりと沙那の方を向く。すると思った通りの表情を向けられていた、と苦笑しながら頬を撫でた。

「大丈夫。君を待っているし、君を待たせるから。 嫌だもの、君が他の誰かに攫われるのも、君が泣くのを見るのも」

「……謙信 様」
「だから、一瞬。 ね、不安に思わないで。…私は沙那を離さないって言ったでしょう?」
「……。はい」
「ふふ、そう、その笑顔だ。…――沙那?」
 微笑を浮かべる頬を撫でていた手を、すっと額に。
「そのたった一瞬の人生の中で、よく私の元へ真っ直ぐと来て…結ばれてくれたね。とても感謝しているんだ。御仏にも…毘沙門天にもね」
「私も、です。名を与えてくれた事も…謙信様が見つけてくださった事も」
「ああ、…君は確かに辛い出来事があった。でも、見捨てられたわけじゃなかったんだよ」
「…はい、それは分かっています」
「ん…」
 額の手は髪を撫でながら、下へ滑り、頬、唇に触れ。顎、首筋と、ゆっくりと辿る――。
「………」
 ――着物の袷、胸元まで下り、触れ。着物越しでも感じられるその優しい膨らみをそっと押さえた。
「…今は、分かるよね? 今も、その次も」
「………。私」
 盃を持ったまま、こつんと謙信の肩に頭を預け、ぽつりぽつりと。

「書庫で、読んだ詩が。…なんだかすごく――…。 どう考えたらいいのかわからなくて。良い詩だと思うのに、何処か…」
 胸の前で両の手で持つ、盃の中身がゆらりゆらりと揺れ。
「……」
 謙信は縋ってきたその身体をゆったりと撫で、先の言葉を促した。
「でも! …でも、謙信様とこの詩のように今を感謝できたらなって、今日、藤の花の下で二人で過ごせたらって」
「………。ふ…」
「たくさん、約束して頂いているのに。私、本当に――」
「我儘なんて思わないで?私も君のお誘いやお願いは嬉しかったんだから。それに、何処にいても私の事を考えていてくれる…その気持ちが」
「………あ」
「大丈夫。―――ほら、とても素晴らしい詩だ。…沙那姫の想いを聞けて、お願いされて、ふふ」
「あは。…はい…! 私も、琵琶と雪解け水、…嬉しいです」


「さ、二人だけの宴、愉しもう」
 盃を取り、すっと沙那に差し出す。
 沙那は手にした盃をまず盆に置き、差し出された盃に同じように水を注ぐ。二人で盃を取り、交わし、微笑んだ。

 ――――風が舞い、藤の花弁が舞い上がる。

「…今、ここに二人在る事を感謝しよう」
「はい、今、謙信様と居られるこの時間を、場所を、…すごく…大切に思います」



「あ、そういえば。 私が、今日言い出した理由も…、あの詩もご存知だったのですか? あ!そう、ですよね…。この盃…」
 質問しながら、盆に視線を渡らせ。直ぐに質問自体が間違っていたと息をつく。
「うん?…ああ、君のはなんとなく。あと、あの詩は春になると時々思い出していたから」
「………」
 はぁ、眉を顰め、頬を膨らませながら息を吐く沙那に、思わず吹き出してしまう。
「はは、面白い顔」
「詩は有名なものらしいので、それはともかく。 …私の思う事なんて筒抜けなんですね」
「そりゃあね、見ているから」
 あまりに当然の事のように言うから、膨らませた頬は淡く桜色に染まる。
「……!」
「だから、盃を用意したの。きっと君からはこのなんでもない時に「酒を」とは言わないと思ってね」
「……(ああ、やっぱり、謙信様には適わないんだ……でも、嬉しい…)」
 沙那の微笑みに、その気持ちを知ってか、謙信も緩やかに口角を上げる。先程から、膨らませたり、染めたりと忙しい頬に手を当てて。
 謙信の指が心地良くて、うっとりと目を細め、白い着物の袖に手をそっと重ねた。
「でも、君は私の想像など軽く超えて面白い事もたくさん見せてくれるから。よく驚くんだ。…こういうの、とても楽しいよ」
「あ。…そ、そう…ですか…」
「ふふ、…知識ばかりあっても使い道を違えれば意味がないよ。…もし、君が傍に居ない空虚なまま、現世を去る事になっていたら、この詩とて「知っているだけ」だったろうし…。意味も分からずね」
「……っ…」
 次に見せた、その眼差しに、とくん、と胸が高鳴る。
「分かりやすい所で、耳障りの良い言葉――…例えば「愛」や、好意を述べる言葉。それらをいくら口にしても、…意味が分かっていなかったらそれはただの文字の羅列だ」
 一度言葉を切り、目を伏せ。
 盆に目線を落し、指でその縁をなぞりながら、続ける。
「……今はね、分かっているよ。この気持ちがそうなんだって。初めてで…最初は戸惑ったけれどね」
 何処か厳しい目。
 目線を盆から沙那に戻し、見据える。
「………。…そう、良い意味で、とても振り回されたよ、君には」
 自らの胸に手を当て、息をつき。沙那と目が合うと微笑む。
「ふふ…、おや、そんな顔をして…。泣くほど嬉しい?」
「あぁ…、酷いですね、私。謙信様が今まで、誰にも気持ちがなかった事が、嬉しいなんて…」
 囁く低い声、艶やかな笑みを向けられ。眉を顰める。「酷い」と思っている気持ちからか、膝の上できゅっと手を結ぶ。
「酷くなんてないよ。…君もそうでしょう…?私以外に想った男など居ないじゃない」
「は、はい…」
 少しばかり力が篭っている沙那の手に謙信の手が重なると、ゆっくりと互いの距離を縮めていく。
「ふふ、沙那がどんなに私を想ってくれているか、分かっているもの。 ―――この気持ちは、痛みも驚きもあって、…でもとても心地良くて……」
 微睡む間際のようにゆっくりと言葉を紡ぐ。その言葉に、賛同するように、沙那は握られた手を握り返した。


「……あ、そうだ」
「?」
「ねえ、本物の酒、この屋敷にもまだあるんだ。今日、湯浴みの時に湯に入れようか?これなら「私の盃を受けてくれ」が、お互いになるとは思わない?」
「まあ、ふふ…。どうぞ、一献差し上げさせてください」
「ん、私が盃を捧げるのも受けるのも…君だけだよ。先程の気持ちと一緒だね。―――ねえ、これからも、こうしようか」
「はいっ」

 見つめ合い、微笑む。
 謙信は沙那の肩を抱きしめた腕をそっと離すと、立ち上がり、一番近い藤の木から一つ、形の良い花を採って来た。
「あの時、私が言った花言葉…覚えているよね」
「勿論です」
 確認するまでもないその返事に笑みを零し、沙那の髪飾りに引っ掛けるようにして花を飾る。
「ん…」
「―――ああ…白い花と、淡い色の藤の花。とても良く似合うよ」
「……ありがとう…ございます」
 髪と頬に触れ、満足そうに笑うと、また同じように腰を下ろす。それから、もう一度傍らの琵琶を取った。
「今度は傍に居て」
「はい」
「ふふ、…私を君が見る景色にしないでね」
「え?け、しき?」
「そう。景色になるのなら、同じ中に居たい。―――だから、…傍に居て」
 くい、と沙那の袖を引く。懇願するような眼差し。
「! まあ…。はい、私も連れて…」
「ん。じゃあ、沙那、…君の為に。―――どうか聞いておくれ」


「(ああ… 私、こんなにも……)」
 はらはらと舞う雪のように、音が寄り添ってくる。
 耳と頬をさわさわと撫でる藤の花飾り。
 自分の為に琵琶を奏でてくれている謙信を見つめながら、感謝し合った盃を胸に。





やはり藤にはちょっと早いんですが…(注・まだ桜)。
ドラマCDがあったことが前提になってます「以前言った花言葉」はそれです。

以前、某様にして「勧酒」の詩を教えていただきまして。そんな感じ。
某お姉さま、ありがとうございますー(私信)。

琵琶が得意なのに弾く事が少ないですよねえ、謙信様。もったいない。
それでもDS宣伝用小説と投稿会の参加賞待受は琵琶を奏でる絵だったのは……、
よく考えたら「少ない」わけでもないのかな…。

あと「この気持ちがそうなんだって、最初は戸惑ったけどね」は、
本編最後の辺りの「言葉だけではわからないものだな」って辺りのを参考に…。
あの台詞は、最初は姫の事は「特別」ではなくて、「大勢の女子の一人」(悪く言えば身体目当て…?)だったのに、
本編最後では「特別」になっていた、って感じですよね(そして周囲も驚くくらいベタベタに)。
段々と惹かれていったってのがいいなぁ。謙信様は。
「淡い藤色」ってカラーコード的には「白藤色」になると思うんですが、
花の白藤自体は真っ白なので「淡い藤色」って言ってます。色の名前になると薄紫なのにね(笑)。

挿絵


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