『ふたりでいること』
「エスナ。……いるかい?」
「は、はい…っ!」
ふいに声をかけられて、エスナはびっくりして姿を現した。傍にいながら姿を消していた事、彼にはわかっていたらしい。心臓がどきどきしてしていることを隠すように、真顔になって、
「はい、います。ロクス、すごいです」
私がいたの、わかったんですね。と、言葉をつづけようとしたとき、
「時間はあるかい」
真剣な顔をして訊かれて、急いでこくっと頷いた。
「はい…」
「…こないだは悪かった。君にあやまりたくて……」
「え?」
こないだ、こないだ…と、頭の中でぐるぐる考えて、あのこと?と、思いあたる。酒場で溺れるほど飲んでいたロクスに「やめてください」と懇願したら「俺に構うな!」と怒鳴られたこと。
それから、ひどく、冷たい拒絶の言葉を投げつけられたこと。
「おやさしい天使様、僕に情けをかける時間があったら世界を救うために他の優秀な勇者でも探したらどうです?」
言葉の裏に潜むものとか、エスナには、うっすら判るような気がしたけれど、
「気にしてない、ですから…」
半分は嘘。思い出すくらいには気にしていたから。ただ、今、姿を消していた理由は、ロクスが怖かったからとか、そういったことではなくて、どうやって声をかけたらいいのか、わからなかったからで…
「もう少し近くに来てくれないか?」
その声に驚いて顔をあげた。
「あ。は、はい…っ!」
よく考えもせず、呼ばれたから近くに行かなければの勢いで、わたわたと一歩踏みだしたとたん、腕をとられた。バランスを崩したところで足を払われて、あっさり床のうえに抑えつけられる。
「ロク……?」
「……」
覆い被さるようにして、エスナを見ている。ロクスは、微笑を浮かべていた。その目はちっとも笑っていない。ふいに顔を近づけて、エスナの耳元にささやいた。
「こうすると悦ぶ貴婦人を僕は何人も知っている。……君は、どうかな?」
「……………」
エスナは、至近距離にあるロクスの目を、ぼんやり見つめていた。他人を受け入れようとしない拒絶の色を間近に見ていた。
「どうして逃げようとしない?」
ロクスが、焦れたようにいった。
「……えっと…私、どうしたらいいです?」
「僕に聞くな」
「逃げたいですけど、動けないです」
びくとも動かない腕は、ロクスにしがみつかれているようで、無理に引き剥がしたいとも思えなかった。痛かったけれど、ロクスのほうが、ずっと痛そうな顔をしていた。
「君は…」
ふっと笑って、ロクスは、エスナをつかんでいた手を離した。
「つまらないやつだな。面白くない」
「……すみません…」
他に何をいえばいいのかわからず、とりあえず謝罪だけして、手を解かれても起きあがることの出来ないまま、ロクスを見上げる。小柄な身体だ。腕の中に、すっぽりと隠れてしまうほど小さい。やさしい光を帯びた青い瞳が、まっすぐロクスに注がれている。
ちいさな唇が、何か、いいたげに細く開いた。
ロクスは、ふいに真顔になった。
「……エスナ、」
「はい」
「………」
「…あの、ロクス、聖都のことは残念でしたけど、そんな気にしちゃダメです。それより今できることを考えたほうがいいです。そゆこと…」
唇が動き、堰を切ったように声を発して、言葉を紡ぐ。小さな舌が見えた。
「黙れよ」
苦笑いとともに顔を近づけ、その唇をふさいだ。暇な貴婦人相手に何度もしたことのある口づけ。たいした意味もない。あるとしたら天使が相手だと、どんなふうだろうかという好奇心くらいだ。と、自分に言い聞かせながら。
「………っ!」
エスナは息をとめた。青い瞳を大きく見ひらいて、覆いかぶさってくる重みに、ぴくっと身体を揺らした。息をしようとしたとたん深くなった口づけに、ようやく我に返ったように、瞳を閉じた。
ぎゅっと、固く、閉じて、
「ん……っ」
苦しくて、声が口の端から漏れる。むさぼるような口づけに息ができず、ロクスの手が衣裳をほどくように体中を探ってくるのを止めることもできない。胸を乱暴につかまれて、膝をわるように足がくいこみ、むさぼる口づけから愛撫する口づけにかわっていく。唇から首筋におりてくる、やさしい感触に、自然と、声が…
「あ…、ロク、ス…や、です…」
気が動転して、苦しさに息があがってくるのを抑えられなかった。動転しただけじゃなく、何か、甘い、ざわざわしたものが這いあがってくるようで、エスナは慌てた。
「……君も同じだな」
ロクスが嘲るようにそういった。とたんに身体から重みがなくなった。
「…は、あ…?」
気の抜けた声になる。あまりのことに心臓ばくばくが脳天に突き抜けそうで、鼓動を抑えるのに必死だ。肘をたてて、やっとのことで身体を起こして…
「何が、です…?」
「乱暴に扱われ、口づけされて悦ぶ。君も、ばかな貴婦人どもと同じだ」
「………?」
が、ロクスの言葉に、ふと鼓動が止んだ。数秒後、ぱあっと顔を真っ赤にして、
「そそ、それって、どういうことですかっ!?」
「どういうことって、そういうことだ」
「何がです。私、ちっとも悦んでません! 重くて、苦しかっただけですっ」
はあっと息をついて、もたもたと肩紐を結びなおしながら、俯いた。ロクスの手が見えた。何でかわからない。ざわざわしたものが胸から這いあがってきて……
「エスナ…?」
ロクスの声が動揺した。エスナも、その声に驚いて顔をあげた。
「……なんだよ。何で泣くんだ、そこで」
「何でかわかんないけど、泣けるんだからしょうがないです」
「泣くな」
「壊れたみたいで、止まらな…」
「…止めろ」
「止まりませんー…」
ひっく、喉が鳴る。それを抑えようししたら身体が揺れた。子供のように泣きじゃくった。
燃える聖都。
茫然と見下ろした、あの燃える美しい街並み。
壊れた建物。失われた命。
ひどい火傷を負った人々の助けを求める声、悲鳴。
癒しの手をと、求める人々の叫びが、まだ耳にこびりついている。
「ロクス、が…苦しんで…かわいそ…です…」
「泣き落としの次は、同情か。いい加減にしろ」
「…………」
言葉にならなくて、一生懸命、首を左右に振った。
「…ったく、泣くなっていってるだろ」
「うー」
「唸るな。……悪かった…」
泣いているエスナの頭に手をのせて、それこそ子供をあやすように撫でながら、最後の言葉だけ小さな声で、ぽつっといった。
悪かった。って、何がです?問いかけようとしたエスナの、濡れた頬を指先でなぞって、その唇を軽くつついた。エスナが慌てたように、もういちど首を左右に振った。
美しい聖なる都を廃墟と化していく紅蓮の炎を見下ろしながら、ロクスの横顔は強い怒りに揺れていた。何よりも自分自身を貶めて、自分自身を憎もうとしている姿に、エスナは言葉をかけることができなかった。ロクスは何もいわない。
声にするのは、拒絶の言葉ばかり。嘲りの言葉ばかり。俺を責めればいい、と。責めてほしいといいたげに。
「おやさしい天使様、僕に情けをかける時間があったら世界を救うために他の優秀な勇者でも探したらどうです?」
そういったときのロクスの寂しげな瞳を思いだして、エスナは、また首を左右に振った。
「私は…他の勇者は探しませんから…絶対、探しませんから…」
突然の言葉に、ロクスは笑った。
「ああ、わかった…」
少し表情がやわらいだように思えた。それだけで、ほっとした。
「天使失格だな、君は」
俺より質のいい勇者なんか大勢いるだろうにと軽口を叩くようにいう。それでもロクスはロクスですからと、わかったようなわからないような言葉を返して……
エスナも笑った。
涙の理由は、ちょっとした謎のまま。
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