酒場と僧侶と天使様



 自分が勧めた酒。
 それで女が酔って腕にからまってきている。声をかけると甘えたような目でロクスをじっと見つめる。
「…いや、…ああ、もう飲まないのか?」
「ふふ。こうしているほうがいいもの」
 そうに言ってもっと体を押し付けてきた。
「…………」
 こんなのそのときだけなのに。この女だって『次期教皇』だとか『金がある』(実際はないけど)とかだけ。
「ふう…」
「ロクスさまあ?」
「…なんでもないよ」
 少し、口元を緩ませて。愛想笑いなんて慣れている。
「(でも、あいつにはやらないな。愛想笑いなんて)」
 こんな目もしてこないし。
 こんな風に腕にもすがってこない。
 へんなところで説教くさかったりするし。子供っぽいし。
「…何で今…あいつのこと――…」
 ロクスはため息をひとつついてグラスをあけた。

 ざわざわ。
 酒場の奥が騒がしい。興味もないが自然とそちらに視線が行く。
「…ケンカか…?」
 そうに言って、固まった。耳に触れる音が喧騒だけじゃなかったから。
 どこかで一度聞いたことのある、曲。
「あら、誰か弾いているの…」
「ピアノでもあるのか?」
「うん。…ピアニストなんて雇ってないし、でも…こんな曲聴いたことないわ」
「ちっ…」
 ロクスはそれに気がつくと舌打ちした。
 それと同時に歌声が聞こえてくる。あたりから声が漏れる。このピアノが使われるのが相当久しぶりのことだったのか、ほかに理由でもあったのか酒場の男どもがピアノの曲なんかに耳を傾けることなんてないだろうに。
「………余計なことを」
「?」
「なんでもない」
 また愛想笑いをしてやって。自分のグラスに視線を戻したがやはり気になる。酒場で一人でいても大丈夫なのかとか。
「(だから僕は保護者でもなんでもないっ…)」

「…じゃあ、次で最後にしますね」
 声がやけにあちらに意識が集中していた耳に届く。
「……一体、何曲弾いているんだ」
「ロクス様?」
「ああ、ちょっと用事ができた」
 多分、そちらに足を向けたのは誰だかをちゃんと確認したかったからで…。男どもに囲まれている奴が気になっているわけじゃない。

 怒鳴ろうとか、怒ろうかと思っていた。なんで怒ろうとしていた?と聞かれると答えられないけれど。
 人だかりの真ん中がわかるところまで来る。
「やっぱり…」
 髪は薄暗いランプのせいでずいぶん違う色に見えた。人の姿になっても天使だという雰囲気を失わないからなのか、その曲も、声も人のそれとはまったく違う。
「…ご静聴ありがとうございました…」
 曲が終わると椅子からすくっと立って周りに恭しく礼をする。
 わあっという歓声。くどいようだがいつもの酒場じゃ曲ごときでこんな盛り上がりは見せない。
「…ちっ。あのバカ…」
「あ、ロクス…」
 法衣姿は流石に目立つので直ぐにエスナは気がついたようだった。目が合ったのを確認するとロクスは酒場の出口に足を向けた。
 

「……また来てたのか」
 街灯のランプで照らされて石畳はやけに段差が浮き上がって見える。
「それはこっちの科白です…。ロクス、放っておくといつまでも飲んでいますから」
「…君に心配されるなんて僕も落ちたもんだなっ。……そうじゃない。なんであんなこと――」
「…………」
 エスナはあのピアノのことを言われると視線を落とした。
「天界の曲は…いけなかったですか。私…あれしか知らないので」
「…………」
「…ロクス……ずっと向こう、向いてて…」
「はあ?」
「…ええと………う、腕が…―――と〜」
「腕〜?」
 聞き返されるとますます視線を泳がせて、両手を頬に当てる。
「…なんか、…どきどきして…ええと……見たく…なくって…あの…」
「……………へえ」
「〜ッ……わかんないですっ、もう。いいですから宿に行きましょう」
 薄暗いから表情はわからない――が。こんなにぎくしゃくとしている動作なんていつもは見せるだろうか。
「…………エスナ」
「は、はいっ」
「腕、貸してやろうか」
 意地悪そうな顔。
「…………………ッ」
 ますます困った顔。
「も、もういいですってばっ…!!」

 そうに言って浮き上がって。とりあえず、そのまま今日は帰ってこなかった。

「嫉妬…?なのか、あれ」




…なんだろう。これ。

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