十文字の神社及び旧蹟 

   

車持神社

 所在地   群馬県高崎市十文字町地内

 祭神    火産霊神 埴山姫神  車持公 

由緒勧進年月はあきらかでないが、上野国神名帳書載の従五位上車持明神は当社のことである。本村は榛名山に登る東南の入り口なので、昔から榛名神社の分霊及び車持の公をいつきまつる。一説に本村は和名抄にある群馬郡郷名群馬の郷で、上野国造豊城入彦命の子孫の住んでいた所である。字名上野と称する所にその子孫にあたる車持公が住んでおられたので、後人が、この公の住居した跡に祠を建て、車持公に榛名神社大神を合わせ祀つたのだといわれている。創建以来社殿の改築は幾回か重ねられたのであるが、現在の社殿は天正八年(1580)九月の造営である。   

 豊城入彦命 と十文字朝日の原  

豊城入彦命は、人皇第十代崇神天皇の長皇子で、東国統治の大任を帯び詔を奉じて遙かに東国に下向、上上野朝日の原の地を相し、居城を築いて東国統治の根城とし、久しく統治されておったが、遂に此の地におかくれになったという。墓所は実に此の処にありなさる。築城のさい、此の地に用水の便がなかったので、北方久留馬川より新たに水路を開き、それを引いて飲料に供せられた。その堰跡は今も尚存在している工を起こすにあたり、命は水神の加護を祈って御神木とし、一本の松をお手植えあそばした。この松こそ名勝「群馬の松」の起源である。 上野君豊城入彦命の後裔射狭君の後車持公は世々榛名山の南麗のこの辺一帯の地を領地とされたから,古くから「車の里」とよびなした。 雄略天皇の時乗輿を作って献納した功により、車持の姓賜わり、子孫はこの地に封土を得て、各所に居住し、やがて地名となった。

                                              ※以上の資料は、久留馬村誌より抜粋

                                                  車持神社                      豊城入彦命碑       


車持氏のいわれと群馬

車持氏の場合は、越(こし)、および上野国群馬(くるま)郡、筑紫、摂津の四地域に関わりが見られるが、車持とはきわめて特異な氏名であり、結論的に記せば、その名は居地にもとづく名というよりも職掌にもとづく名と考えられる。つまり天皇(大王)に近侍してその日常や儀礼に供奉した主殿の任務分掌のひとつである興連の供御、すなわち輿(もちこし)をかかげ、こしぐるまをひくことにもとづく負名の氏が車持氏の本来の姿であった可能性が高い。したがって、車持氏はかなり古くから王権と深く結びついた氏で、その性格は物部氏や大伴氏に近かったと考えられる。
群馬は現在県名ともなり「ぐんま」と読まれているが、『和名類聚抄』は「久留末(くるま)」と訓んでおり、藤原宮木簡でも、「車評(くるまおこほり)」である。
そして、つい最近まで群馬郡には久留馬村(榛名町東部)・車郷村(くるまさとむら)(箕郷町西部)が存在していた。「クルマ」が本来の名だったのである。
その群馬郡内あるいは上野国内に車持郷や車持氏の存在は確認できないが、平安時代中期成立の『上野国神名帳』群馬西郡条には従五位車持明神、正五位車持若御子明神が見えており、群馬西部にあたる榛名山山麓に車持氏が一大勢力を築いていたことは否定できないであろう。

毎年、1月15日(昭和30年代には、1月14日)に正月飾り等を集めて無病息災、五穀豊穣、を願い燃やす。今では、祝日 法改正により毎年日にちは異なる。(下記掲載写真は、2015/1/3 子供達と制作)


8月13日に車持神社にて行われる十文字祭りにあわせて開催される盆踊り
2001年十五周年を記念して車持神社の由来碑の建設が行われました。 記念碑も建設されました。(各、記念碑等の資料は、ただ今準備中)

                   上記の祭り写真は、2010年開催時 


久々に、十文字祭り 更新です。前回更新時から7年たち小学生卒業した方も多いです その分、小学生が減少、此からどうなるのか?心配です。

少ない人数ですが、一生懸命がんばって神輿を担いでおりました。 大人神輿も頑張っています。 売店に、お客様大勢来て頂き有り難う御座いました。      2017.8.13